学んだ自我と権威問題

奇跡のコースを生きる

月一回開催している連続クラス「奇跡のコースを生きる」では今月、テキスト(本文)の以下について扱いました。

第三章
六 裁きと権威問題
七 創造されたもの対自己の想像
(田中百合子さん訳『奇跡の道』より、以下同様)

 

クラスで扱った内容をふり返っていたら、つらつらと言葉が出てきました。

どなたかの参考になるかもしれませんので、覚書を兼ねてシェアしてみます。

コースの学習に慣れてきた人には「なるほど!」と思える内容だと思います。

 

ちなみに冒頭の写真は今月のおやつ、ミサキドーナツ3種のシェアです。詳細は最後に♪

 

自我は幻想。自我は存在していない。

最初に確認しておきますが、自我とは「自分という個別の存在がある」という認識であり、究極のところ幻想です。

コースのなかでも繰り返し「自我は存在していない」と強調されています。

 

一方で、私たちは長い間、自我が自分であると思い込んできました。

ですから、いきなり「自我はない」と言われても、多くの場合、即座に受け入れることはできません。人によっては、コースを学んでいくうちに自分が消し去られてしまうような怖れを感じる場合もあります。

コースは、必要のない怖れを喚起することを意図してはいません。にもかかわらず、私たちが怖れを感じるのは、自我が喚起する怖れを自分自身の怖れだと勘違いするからです。

 

私が今まで出会った人のなかには、「私は自分を自我だとは思っていません」と言う人もいました。

いわゆる前世の記憶や、生まれる前の記憶、地球ではないどこかからやってきた記憶がある人に、そう話す人が多いかもしれません。あくまで、私の体感ですが。

 

ただ、そうした人の話をよくよく聞いていると、「自我」という言葉の認識が私とは違う、という印象を受けます。

私の目に彼らは、自分自身を自我だとは思っていないけれど、「自分と他の人は違う」という「分離」は信じているように見えます。多くの場合、本人に「分離」を信じているという自覚がありません。

コースでは、「分離」を信じていることそれ自体が自我である、という受け止めをします。コースの内容を吟味する前にこのあたりの認識を合わせておくと、いくぶん無駄な混乱が避けられるかもしれません。

 

「私は自我ではない」と主張する人のなかには、この世界のなかで生きづらさを感じる人もいます。

たしかにこの世界は、一人一人の個が生き残ることが前提になっているので、誰にとっても、まあまあ生きづらいところだと思います。

 

ただ、自分が生きづらさを感じる理由を、「自分は〇〇だから」という「自分だけ」の特別な事情だととらえると、事態を根本的に解決することが難しくなります。

なぜなら、「自分は〇〇だから」という自分だけの事情そのものが分離に基づく思考であり、生きづらさの根本的な原因だからです。

 

自分が生きづらさを感じることに罪悪感を抱く必要はない、と理解できるようになるまでの一時的な認識として、自分固有の事情を採用してみるのはアリだと思います。

私も実際の現場では、リーディングやチャネリングを通して、その人固有の事情を見て取ることがよくあります。

一方で、そうしたものの見方は真実に至るまでの、いわば踊り場であり、到達点ではないと私はとらえています。

 

その人固有の事情は、私たちが分離に基づかない世界を生きようとするとき、別の目的で再利用することができます。私はいつも、それを意図して、リーディングやチャネリングをしています。

 

私たちの本質は、とてもじゃないけど想像できるようなものではありません。想像をこえているものを言葉にはできないので、ひとまず「そういうものなんだな」と受け止める程度で十分だと私は思います。

 

今話してきたような現象は、万人に共通な心の仕組みから生じるものです。

本気でコースに取り組む人にはよく見られる現象なので、「ああ、そういう仕組みになっているのだな」と受け止めるだけで十分だと私は思います。

やがて、自我が繰り出す数々の誘惑を見分けられるようになり、怖れをはじめとする数々の感情やそれに紐づく思考にふり回される時間が減っていきます。

 

コースのテキストは、そうした私たちの心の動きをすべて把握したうえで、私たちがすでに知っている概念を使って、真実に目覚めるよう導いてくれます。

テキストのある段階まで、本当は存在していない自我という概念を用いて解説をしているのも、無駄な怖れを喚起しないという綿密な設計の現れだと、私は思います。

 

 

誰が、自分と世界を作ったのだろうか。

コースでいう権威問題とは、本文の表現を借りるならば「誰が創始者なのかという疑問」です。

実のところ、権威問題は完全に自我の独り相撲。

この話をするときはいつも、脳内で「起きてもいないことを起こったことにするために必死になっている」図が思い浮かんで、ちょっと笑いが出てきます。

 

このあたりについて触れているのが、本文第三章 六 裁きと権威問題です。

内容はコースのテキストに書かれていますので、そちらをご覧いただければ、と思います。

 

 

学んだ自我と、新たな誘惑。

今月のクラスの後、メンバーにシェアしようとして書いた文章を、ここにも書いてみます。

 

コースを少し学ぶと、

「この世界はないし、自分という個の存在はいない」ということを知っている自分

という「新しい」セルフイメージが現れることが、よくあります。

ここではひとまず、学んだ自我と呼んでみますね。

 

学んだ自我はやがて、「自分が創造主であり、自分がこの世界を作っている」的な思考に基づいて、「新しい」バージョンの誘惑を繰り出すようになります。

そのうちのひとつが、神になり替わろうとする行為です。乱暴に言うと、神と同じことをしようとするんです。

 

学んだ自我にとって、これはなかなかに快適なスタンスです。ゆえに、学んだ自我の誘惑は、とっ散らかっている自我のそれに比べて、格段に巧みでわかりづらい。

…なんせ、学んでますからね(笑)

 

学んだ自我は、
「真実を知っている自分が、それを知らない者たちを導く」
「愛を知っている自分が、それを知らない者たちに愛を与える」
といった思考を繰り出すことが多いです。

まあ…確かにそうだし、間違ってはいないのですが、学んだ自我はなかなかに巧みです。

 

もし、自分と「それ以外の者」に分離を見ている、自分と「それ以外の者」に上下優劣を見ているのなら、気づかないうちに、学んだ自我の誘惑を聞き入れているのかもしれません。

そもそも、自分も「それ以外の者」もいないんですよね(笑)

学んだ自我が巧みに隠すのはこの部分です。

 

 

知覚の世界で見ているものは、すべて自分です。

自分が信じていることのうち、受け入れがたいものを他の人のなかに映し出しているだけです。

とはいえ、知覚それ自体が自分の想像であり幻想なので、それに気づいて選び直せば、するっとひっくり返すことができます。また、自分が他の人に写し出したものが本当は何だったのか、聖霊と一緒に見直す機会にできます。

 

学んだ自我にするっと丸め込まれる現象も「あるある」です。

もしそうなったとしても、落ち込んだり反省する必要はありません。

「あ、やられた!」と笑って、選び直せばいい。

 

 

自我や怖れ・罪悪感は存在しない、という前提で話す

心のコソ練では、自分スペシャリストを生きるという別のクラスも主催しています。

奇跡のコースをテーマにしたクラスとの一番の違いは、躊躇せず真実に切り込んでいくかどうか、です。

 

コースの教えがそうであるように、私自身も真実を押しつけるようなことはしません。

真実を知っているかどうかより、今幸せかどうかのほうがはるかに大切だからです。

そうした基本スタンスは、コースのクラスでも同じです。

 

 

一方で、コースのクラスには「まずはコースの教えをやってみよう!」という同意があります。

また、「コースのテキストに書いてあるのは、どういうことか理解してみたい!」という興味もあります。

 

だからこそ、「あれ?」と思った点を遠慮なく掘り下げていけますし、「コースのこの部分は、こういうことだと思うよ」と説明していけます。

別のクラスでは選択しないアプローチを選択させてもらえるのが、私にとってはすごく楽しいことであり、ありがたいことでもあります。

 

最近のクラスでは、そもそも自我も罪悪感も存在していないという前提で話をしています。

というのは、私自身の住んでいる世界には、罪悪感という感情が見えなくなっているからです。

 

もちろん、「やべ、悪いことした!」と思うことは何度もあります。でもそこには、ねちねちとした罪悪感はありません。

そのときの感情・感覚を聖霊とともに見て、自分が本当はどう感じていたのか、これからどうしたいのかを一つずつ問い直し、選び直していきます。

その結果、「これは謝らないといけない…!」と思ったら、その気持ちを言葉にして伝えています。

 

罪悪感がない世界で生きるとは、今まで罪悪感を見ていたところに何があるのかを、聖霊とともに見つめ直すプロセスです。

「聖霊はこれをどう見るだろう?」と問いかけることで、知覚の世界で見るに値するものが見え、必要のないものは軽やかな笑いとともに消え去ります。

 

私が日々体験しているプロセスは、罪悪感を取り上げて扱うプロセスを経由するのに比べると、圧倒的に軽やかで笑いに満ちています。

奇跡のコースをテーマにしたクラスでは、それを分かち合うことを意図しています。

 

 

コースの教師という目線で、癒しや目覚めに関するいろいろな人の言葉を見ていると、罪悪感という概念を軸にした方が圧倒的にわかりやすいのだな、感じます。

私たちが長年慣れ親しんだ感情なので、学んでいる人にとっては、「理解できている」という実感があるのですよね。

初学者の頃は「わかるようになった」という実感が学びを助けてくれるので、一時的には有効なのだと思います。

 

一方で、罪悪感や怖れは、ある種の中毒性をもって心に存在し続けようとします。

そのことを覚えておかないと、必要以上に長い期間、罪悪感や怖れを軸としたプロセスにとどまることになります。

 

…まあ究極のところ、どっちでもいいんですが。

私個人の好みとしては、無駄に遠回りするのはもったいない気がします。

私たちは、罪悪感や怖れから逃れるために生きているのではありません。

 

そんなことよりもっと楽しいことがたくさん用意されているのだから、縁ある人と一緒にそれを見たい。

奇跡のコースをテーマにしたクラスは、そうした私の好みをストレートに表現されてくれる、ありがたくて楽しい場です。

 

 

教えることで、自分が学んでいる。
だから遠慮なく説明できる。

奇跡のコースを主催する人のなかには、「他の教えを排除して、とにかくコースの学びに専心するように」と教えている人もいます。

うちのクラスは…というと、私が自らの体験に基づいて作成した図や資料を使って、説明したり、認識を合わせたりしています。

 

私がそういうスタンスをとっているのは、教えることで学ぶ、というコースの前提を生きているからです。

その前提がなければ、とてもじゃないけど、奇跡のコースについて他の人に話をするなんてできません(笑)

 

ヒーラーという仕事をはじめて、そのあとコースのクラスを主催するようなって、何度も何度も「話をすることで、私がみんなから教わっている」と実感できる体験をしてきました。

その積み重ねが、ヒーラーとしてのプロセス、クラスのナビゲーター役としてのプロセスを支えてくれています。

 

 

2022年9月のおやつ。

最後に、今月のおやつのおやつについてシェアします。

 

ご用意したのは、ミサキドーナツの3種盛り合わせ。

ちょうど、シァル鎌倉にポップアップショップが出ていたので買いました。

切り分けることができるおやつはできるだけシェアして、みんなでいろいろな味を楽しめるようにしています。

左上・レモンクリームチーズと、右下・チョコバナナは、私が選びました。

もうひとつは店員さんにお任せしてみました。

可愛らしいお嬢さんが選んでくれたのが、いちごミルク。彼女が大好きなフレーバーなのだそうです。

私はふだん、いちご加工品に手を出すことがないので、自分では絶対に選ばなかったアイテムです。

 

「けっこう甘いんですけど…」という店員さんの言葉がちょっと気になっていたのですが、実食したら、超~おいしい!

なんなら、その日食べたフレーバーのなかで一番好きでした。食べたら一番好きなものを自ら避けていたなんて…(笑)

 

これもまた聖霊の采配。

いつもながら見事です。

 

 

聖霊にお任せ宅配便。

奇跡のコースもそうですが、真実は体験で知るしかなく、その体験すら言葉で正確に描写することはできません。

図や文章を駆使しても、自分の体験のほんの一部分しか表現することができないとき、知覚の世界の限界を痛いほど実感します。

 

一方、情熱と興味に背中を押されながら楽しく書いた文章は、聖霊の計らいによって、どなたかの心に必ず届く、と思うのです。

いわば、聖霊にお任せ宅配便。

どこの誰にどう届いたのかを知ることはできなくても、思いがけない形で届いていることを想像するだけで、ちょっと楽しくなってしまいます。

書くことが好きな人間は、だから書くのでしょうね。

 

クラスのふり返りをするはずが、思いもよらぬ方向へ話がふくらんでしまいました。

おつきあい、ありがとうございました。

 

もしあなたに、奇跡のコースに心惹かれる瞬間がやってきたら、どこかの誰かが放った言葉が届いたのかもしれません。

それが私の言葉だったとしたら、ぜひ教えてください。

楽しみにしています。

 

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なおちん

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