好き嫌いとは単に「自分らしさの表明」

大切な考え方

何かを嫌いでいることや、自分の嫌いなものを「嫌いだ」ということに、罪悪感を覚えている人は、かなり多いように感じています。

かくいう私も以前はそうでした。

なぜ唐突にこんなことを言い出したのかというと、元メインブログ(アメブロ)の過去記事を偶然目にしたからです。

 

私の場合は、誰かが好きではない・嫌いだ、何かが好きではない・嫌いだ、と表明することで、相手を傷つけてしまうのではないか、という怖れを抱えていました。

その怖れの正体は、自分が誰かから嫌われることは、自分を否定されること・自分が傷つけられることだ、という信念です。

 

何かをすることで誰かが傷つく、
と考えているということは、
同じことをされたら自分が傷つく、
と考えているということ。

典型的な「投影」の構図です。

 

「投影」は、本人に気づかれない方向で働きます。

だから、
「相手を傷つける=自分が傷つくと思っている」
という仕組みに、気づくことができない人もいます。
その仕組みをガンとして受け入れない人もいます。

そんなふうにして本人が気づかないことで、「投影」は、本人にとっての事実として続いていきます。

 

一方で、今回の事例のように「誰かのことを嫌いだと言うと、その人が傷ついてしまうかもしれない」と考えて、心の痛めている状態は、私たちに「それが真実ではない」と教えてくれています。

同時に、何を自分の真実にしたいのか、選び直す機会を与えてくれています。

 

今回の例で言えば、

  • 誰か・何かを「嫌いだ」ということで、相手が傷つく
  • 誰かから「嫌いだ」と言われることで、自分が傷つく

という信念を、自分にとっての真実にしたいのか?という問い直しができます。

 

先にご紹介した元メインブログの記事で私は、
自分らしさの一部として好き嫌いを自由に表現できる世界を、自分にとっての真実にする、
と選びなおしました。

 

私がもし、誰かや何かが「好きではない」「嫌いだ」と言ったところで、相手が傷つくわけではないし、相手を否定するわけでもない。
逆に、私が誰かから嫌われたり、「好きではない」と言われたとしても、それで私が傷つく必要もないし、私が否定されたことにもならない。

そういう世界を、自分にとっての真実とし、そういう世界に住む、と決めたわけです。

 

心底そっちがいい、と思えれば、今後、好き嫌いの問題で、誰かを傷つけたり、自分が傷ついたりする体験はなくなります。

仮に、そのように感じる出来事が起きた場合は、その時にもう一度、何を自分にとっての真実にしたいのか、選び直せばいいわけです。

 

傷つけた・傷つけられた…という過去の体験を癒すことで、好き嫌いについての信念を変えることももちろんできます。

私もかつては、そうした手法で、ありとあらゆる癒しに没頭してきました。一定の効果も感じていますので、否定はしません。

一方で、そうした過去の体験は、単に自分の記憶であり、無数にある解釈のひとつです。真実とは限りません。

 

なので、心のコソ練では、一番最初に、自分にとっての真実を選び直すことをおすすめしています。

自分にとっての真実がなにかわからなくても、「これは真実ではない、真実を見たい」と意図するだけで、天の采配が働きます。

 

そして、本来の私たちにふさわしい解釈や考え方が、この世界を幸せに生きるための真実としてもたらされます。

この世界で知覚できるものである以上、永遠の真実とは限りませんが、私たちがこの世界で生きている間は十分に有効な真実です。

 

無意識であれ、意識的であれ、私たちがこの世界で体験するものは、私たちが「見る」と決めているものです。

自分で決めているので、自分で問い直し、選び直すことができます。

 

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なおちん

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